谷口克広「信長・秀吉と家臣たち」学研新書

公開日: : 書評(書籍)



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信長の合理性。成し遂げられなかった封建制の成立を薦めた秀吉。この辺は通説的な説明がされている。それを取り巻く家臣たちの生き様が面白い

荒木村重が秀吉の世まで茶人として生き延びたとか知らなかった。急速にフェードアウトする人のその後って、ときどきハッとさせられる。武田信玄の親の信虎とかな

信長の合理的なところ、弱者に優しい所というのはもっと強調されていいように思う。この辺を含め、著者が言うように最近のテレビドラマというのはせっかくのよい史実をそのまま使って欲しいと思う。へんな演出は要らない。今年の大河はテーマは興味深かったものの、脚本がひどく、本能寺の変くらいではや見るのを止めてしまった



p31.信長の気遣いは、外国人とか身体障害者とか老人とか、立場上あるいは肉体的に「弱い者」に向けられていたように思われる

p35.言継の大きな功績といえば、我々後世の者に貴重な資料を残してくれたことだろう。『言継卿記』と呼ばれている彼の日記は、戦国時代から信長の時代までの研究の重要な資料である。しかも言継はたいへん筆まめで、ほかの公家の日記よりはるかに几帳面に書かれているから、参考になる記事が多く含まれている

p52.信長家臣の中に、一人ユニークな存在がある。埴原(加賀守植安)という者である。彼の前身は、諸国を巡り歩く貧しい巡礼だった。信濃の出身とも甲斐の出身ともいう。ただ巡礼だったことは、複数の資料に書かれているから、ほぼ間違いないだろう。信長のめがねにかなった植安は尾張に領地を与えられ、清洲城の城代の地位にまで上る

p63.信じられないのは、この後の直政の一族郎党に対する信長の仕打ちである。直政の腹心だった丹羽二介と塙孫四郎という者は罪人として捕らえられる。それのみか、直政の一族からの預かり物を差し出すように、との触れが大和中に回った。直政は最後の戦いの時、重大な失策を犯したのだろうか。そうではあるまい。敗戦そのものが罪とされたのだろう

p65.ごとくを供奉して岡崎まで送り届けたのが信盛だったという。信長の上洛の計画が進むと、信盛は畿内の国人領主や有力寺院などに通信し、信長上洛のお膳立てに尽力している。この事跡からもわかるが、戦いだけでなく幅広く活躍できる重宝な家臣だったのである

p72.信盛は、キリスト教宣教師ルイス・フロイスが「よき教育を受けた人」と評価するほどの折り目正しいインテリ武将である。秀吉のようにがむしゃらになれなかったのも、インテリの弱みといえるのではないだろうか

p77.この謀反が特殊なものといわれるのは、その結末において、謀反の主役である村重が生き延びたということである。攻囲された城から抜け出した彼は、一族郎党が虐殺された後も、自分だけのうのうと生命を永らえるのである

p88.秀吉の世になって、村重は畿内に戻ってくる。でも、二度と刀を振るうことなく、一介の茶人としてその生涯を終えた

p93.日乗の「夢」については、『太閤記』に載っている。つまり、日乗がまだ出雲にいた時、夢で荒れ果てた皇居を修理せよというお告げを受けた。それで領地も家来も捨てて上京し、関白近衛晴嗣(のち前久)にその旨を話し、参内して天皇に拝謁したという経緯である。『太閤記』だけの記事なら、気に留める価値がないのだが、荻野氏は、日乗の「夢」について、一次資料中から3点も紹介しておられる

p106.最終的にはクーデターは失敗したようで、龍興が城に復帰することになる。前に触れた快川の書状によれば、美濃の国衆の多くは半兵衛方に付かなかった様子なので、結局は城を龍興に返還せざるをえなかった、ということだろう。けれどもその後、半兵衛や安藤が処罰されたという話がないから、和解によって城を明け渡した、ということではなかろうか

p165.北近江から敗走した勝家は、その途中で前田利家の居城の府中に立ち寄る。実は、利家こそは、賤ヶ岳の戦いのクライマックスで敵前逃亡をして、味方の敗戦を決定づけた裏切り者なのであった。しかし勝家は、一言半句利家を責めず、これまでの骨折りに対して礼を言い、あなたは秀吉と仲がよいのだから、おとなしく降ればよいだろう、必ずそうするように、と念を押したという。そして湯漬けを所望し、それを食べた後、北庄へ向かって出発したということである。勝家はこの3日後、北庄城を攻められて自殺する

p178.なんといっても秀吉の売り物は、動きの速さと行動の的確さである。必要とあらば、何日も寝ないで動き回る。天正5年に播磨に派遣された時は、播磨に着くや否やすぐに国中を駆け回って、国中の人質を徴発していった。わずか十日余りで、播磨の平定は一段落する。実は秀吉には、播磨に派遣される2カ月前、柴田勝家と衝突して加賀の戦線から勝手に引き上げ、信長の怒りを買ったという前歴があったのである。そのマイナスを挽回せねば、という気負いもあったのだと思う。秀吉の猛烈な働きを見て、信長は、かわいい奴と思ったのだろう。いつになく優しい手紙を秀吉宛てに送る。「よく働いた。戻ってきて一服せよ」しかし、秀吉はきかない。「いえ、このぐらいでは、たいした働きではありません」とせっかくの慰労を断って、隣国の但馬まで攻め込み、いくつかの城を落とすのである。秀吉が安土に報告に上がるのは、12月になってからだった。ちょうど信長は三河に鷹狩りに行っていたが、出発する時、秀吉が来たら褒美として渡すように、と天下の名物「乙御前釜」を用意していた。信長がこれほど家臣に気を遣うことは珍しいことである。秀吉は、信長の家臣としての務めについてよく知っていた。思い切り働いて成果を上げさえすれば、信長は必ず認めてくれるということを心得ていたのである。三木城攻めの時も秀吉は、ずっと不眠不休の努力を続けた。2年近くの攻囲の末ようやく攻略した後、彼は有馬温泉に行き、2日2晩眠り続けたという

p187.宇喜多直家といえば、松永久秀・斎藤道三と並び、戦国の梟雄として知られている。敵や邪魔者を次々と暗殺・毒殺することでのし上がり、ついに主家浦上氏をも滅ぼして、備前・美作を切り取ったという経歴は、たしかに梟雄と呼ぶにふさわしいものである。『太閤記』にも、「義をうとんじ、欲深し」と酷評されている。そんな直家なのだが、天正7年に秀吉に降ってからは、一貫して秀吉のために働いているのである。それは、秀吉が誠意をもって応えたからである。直家に対しては、信長は最後まで信用しなかった。毛利氏との戦いの失敗を、何かと直家のせいにしているほどである。でも、それを庇ったのが秀吉だった。降参の許しを信長からもらう時も、秀吉はたいへんな苦労をしている。さすがの梟雄をも心服させてしまう誠意が秀吉にあったのである。まだ幼かった一子秀家を残して直家は死んでしまうが、秀吉は秀家を自分の養子として育てる

p196.全体的に見るならば、寛大な処置といってよいだろう。いったん光秀に味方した者でも、早めに降参した山崎や多賀などはまったく罪を問われていない。『老人雑話』にある聞き書きによると、多賀は戦いに参加したものの、光秀方の敗戦を察して早々と降参したので、秀吉からかえってその判断のよさを褒められたとのことである。まさかと思うが、罪を問われなかったことは事実である。「追放」とした者の中には、京極高次と同じく逃亡した者もいるようだが、その者たちも、逃亡などせずに神妙に降参したならば、少なくとも厳罰を受けることはなかっただろう

p203.快活・温容なイメージを持たれている秀吉だが、神子田や尾藤に対する処置には、何か異常な執念を感じさせる。この悲惨な結末には、自分を絶対視させようという権力者の意図ばかりでなく、信じていた者に裏切られた、という悔しさも感じ取れよう

p215.秀政に関する逸話は、江戸時代に編纂されたいくつかの本に載っているが、特徴的なことは、どれも秀政を褒めるものばかりで、悪口めいたものが一つとして存在しないということである

p246.天正18年、北条氏を滅ぼし、奥羽の諸大名を降参させて、秀吉の日本統一は完了する。秀吉は早速検地奉行を派遣して、関東・奥羽の検地を行う。このとき、検地奉行の一人だった浅野長吉(後の長政)に宛てた朱印状があるが、次のように命令している。「命令に従わない者があれば、その者が城主ならばその城を攻めて皆殺しにせよ。百姓ならば、村の一つや二つ皆殺しにしてもよい。たとえその村が荒れ地になってもかまわない」「検地は、山の奥、海は櫓櫂の続く所まで念を入れて行うように」検地に向ける秀吉の執念がこの手紙でわかる

p252.この石高制という制度は、秀吉の時に全国に行き渡って以来、江戸時代を経て明治6年(1873)の地租改正までなんと300年近くもの間、日本の経済上の単位として定着し続ける。思えば、米の収穫高が支配層・被支配層あらゆる人々の生活の基本的な単位になった国など、世界中どこを探しても日本以外にないだろう

p254.都市の再建というならば、秀吉の京都の大改造についても触れねばならない。京都は現在、短冊形の町並みになっているが、これは秀吉の都市計画のもとに再建された結果なのである。秀吉は、天皇の御所や自分の住まいの聚楽第を中心に建築物を整理し直す。そして「お土居」といわれる土塁を築き、市街を取り囲む。京都は下水道も備わった、新しい都市へと生まれ変わったのである

p280.織田政権の吏僚は、大名でない純粋の吏僚、豊臣政権になると、大名として領国を統治しながら吏僚として政権を支える形、徳川幕府になると、もはや吏僚として区別される存在がなくなってゆく

p292.関ヶ原の戦いというのは、初めに言ったとおり、石田三成という人物への好悪によって武将たちがぶつかり合った戦いだったといえる。三成に好意をもっていた大谷・小西・宇喜多は、三成の味方として奮戦した。逆に憎悪の念を持っていた福島・黒田たちは、三成に対して立ち向かった。初めは味方として戦場にやってきた小早川も、結局は憎んでいた三成の味方を通すことができなかった。一人の人間への愛憎がこのような形で歴史を左右するということが、ほかにあっただろうか

p309.それに引き換え秀吉はどうだろうか。どうもこのごろ人気がないのである。端的に表れているのが、最近の大河ドラマにおける役割である。「悪役」ばかりふられているのである。特に今年の『江』の中の秀吉はひどい。軽薄、色好み、恐妻家、主君信長に対してはご機嫌取りばかり。おまけに、当然信長が負うべき「父長政の仇」まで担わされるというそんな役割。あんなつまらない男がよくも大出世して天下人にまでなったもの、と首をかしげてしまう



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