鈴木理生「東京の地理がわかる事典」日本実業出版社

公開日: : 書評(書籍)

じっくりと1ページ1ページ読み込んでしまう良書。本当かどうか分からないが、かなりマニアックな内容で、そのタイトルに偽りない、事典といって差し支えない濃さ。
現在の東京が海と半島だった時代から始まり、江戸に幕府を開いてからのめまぐるしい変化など、さまざまな切り口から丁寧に説明している。
江戸の火事は実は放火だったとか、銀座をキレイにするために火事が起きたのではないかとか、そういう陰謀めいた話も少し入っている
古いところも趣がある。前島の存在、日比谷の干拓、川をつくり、既存の川の流れを変え、街道をつくり、宿場をつくる。それぞれの街道で何が運ばれるか、そしてそれがどのように鉄道に取って代わられたのか。江戸の暮らしはどうだったか。八重洲の地下街、西新宿の地下通路
例えば、花小金井という地名がある。プレフィックスとして「花」っていかにもおかしいではないか。このヒントが徳川吉宗にあったりする。この本の中でも少し触れられている
東京に住んで、東京で仕事をするような、東京に縁のある人間が読むのがいい。自分の関係する場所の来歴がふと分かったりして面白い

p18.こうした官道の原形は、先住者や渡来人が踏み固めて形成された道だった。武蔵路は相模湾岸の高麗山ー平間ー当麻を経て、武蔵の多磨-狭山ー入間ー児玉で利根川を渡り、群馬ー吾妻ー浅間ー筑摩と東山道に通じる、いわば東国の「山の辺の道」である(すべてに「ま」がつく点に留意)
p27.徳川が関東の中心的なこの荘園を自領に抱え込み、しかもそれを隠すために、記録を徹底的に抹殺したのは、江戸前島を横領したからなのだ
p40.野川は水源も湧水で、その流路の左岸の湧水線も水源になっている川だ。このような川の流れ方は野川にかぎらず、武蔵野台地内の河川に共通してみられる。多摩地方ではこの湧水線を「ハケ」と呼ぶ。現在、このハケがよく観察できるのは都立野川公園だ
p42.上野の山は、浅草側から見ればたしかに山のように見えるが、実際には武蔵野台地に続いているから地理的には山ではない。山とは、周囲から独立的に突起する地形をいう。この定義からいうと、東京の平野部で山といえるのは、区部では待乳山(真土山=台東区浅草七、本龍院聖天宮)。市部では浅間山(府中市)と多摩湖・狭山湖を抱える狭山丘陵の三カ所くらいだろう。待乳山は、縄文後期の海進による波食で削り残された本郷台地の一部で、浅間山と狭山丘陵は古多摩川の扇状地の中で、川の氾濫から削り残された場所に富士・箱根の火山灰(関東ローム)が積もったところだ
p47.一直線に並ぶ三宝寺池、妙正寺池、善福寺池、井の頭池は、武蔵野台地の下の砂礫層を流れる地下水が、地表に現われてたまったもので、地下水流の「瀑布線」に沿ったものである。地下にある流れの「滝壺」がこれらの池ということができる
p58.明治政府は、その成立直後に首都を早々に江戸改め東京に決めた。これも、北海道の主権確保とその統治上、東京が当時の日本の地理的な中心にあることを意識したためであった
p60.元禄11(1698)年11月、最初の宿場である高井戸と日本橋との距離(約4里=16キロ)が遠すぎるという理由で、その中間の内藤家門前に宿場開設願いが出された。それが許可され、内藤新宿という宿駅ができ、江戸四宿のうちの一つとなった
p67.甲州道中は、五街道の中で公用交通や大名の通行が最も少なかった(高島・高遠・飯田のわずか3藩)。しかし産業道路としては重要で、信州・甲州をはじめ江戸近郊の農作物やさまざまな物資が、内藤新宿を通って江戸に運び込まれた
p68.こうした近世海運の成立には、江戸建設の「天下普請」が大きな関わりをもっている。はじめは家康の命を受けた諸大名が、さまざまな物資を領地から普請場所の江戸へ自営の船で輸送した航路だったが、のちにこれが「民営化」したのだ
p82.現在の千代田・中央区の範囲は、平均3年に1度くらいの割合で消失している。とにかく江戸は火事が多かった。そして、江戸の火事の記録を調べると、放火の疑いが強い火事が非常に多い。ある火事が鎮火した時刻に、無関係の場所に飛び火するような例もみられる
p84.江東地区は、江戸から大正まで、毎年のように洪水の被害を受けてきた。しかしこの地域の洪水の特徴は、徐々に水位が上がって浸水し、やがて水が引く形の洪水であり、なにもかも一挙に押し流す勢いの洪水ではなかった。そのためこの地区は「洪水常襲地帯」ではあったが、多くの家屋が自然堤防上にあったこと、縦横にはしる運河を利用する生活の中で、ふだんから舟を「マイカー」のように使っていたことなどから、よっぽどの大洪水でもない限り、決定的な被害を受けることは少なかった
p90.江戸入りした家康が江戸城の粗末さに目もくれず、最初にとりかかったのは運河の開削工事だった。そのうちの一つが、「道三堀」の工事だった。行徳は、当時の関東最大の製塩地で、道三堀と小名木川の開通によって、塩を安定して運搬できるようになった
p128.台場の工事を天下普請にできなかったことが幕府衰退の象徴であり、幕府直営(工事は民間請負)の工事で手持ちの現金の大半を使い果たし、その後の財政破綻の原因となった
p134.17世紀の過半を費やした江戸の建設に動員された全国の大名とその家臣団は、江戸に来るとすぐに野菜類の自給自足を始めた。そのため江戸は多種多様な野菜の消費とともに、その栽培技術の交流の場にもなった
p135.果物屋という商売は1年を通して果物が扱えず、夏は氷屋、冬は芋屋(焼イモ・ふかしイモ)を兼業するのが普通だった
p143.幕末から明治初期に工場制工業が成立すると、新政府が接収した旧幕府の直轄地や各大名の判定の物揚場に官営の工場が建てられ、水車を動力として利用した。とくに石神井川の場合は、流れが旧で水車の効率がよかったため、ここも軍用官営工場の動力源として利用され、北区赤羽地区に一大工場地帯と北区王子に製紙・印刷工場が建てられている
p14.明治11(1878)年の郡区町村編制法の施行により、新しい区名のつけかたの特徴は、①皇居を中心に時計回りに区画の順を定め、②その区画名の半分は、旧江戸城の城門名を採用し、③しかも新しい区の範囲は、その城門の外側一帯の地区だった。④その他は道路幹線沿いの地名を選んだ
p148.三多摩の東京移管の最大の理由は、政府がきたるべき日清戦争にそなえて大幅な軍艦建造費の増額予算案を、帝国議会に通過させるためだった。当時の政治情勢は明治10年代から激しくなった自由民権運動の一つの成果である国会の開設があり、その後の藩閥政府と自由党の対立という状況が続いていた。当然、自由党は政府の軍備増強案についても大反対だった。その自由党の最大の拠点が、三多摩を中心とする地域だった
p159.明治13(1880)年に小笠原諸島の所管を東京府に移管した当時の島民は天保元(1830)年に漂着した欧系米人セーボリー一行の子孫が主で、父島に211人、母島に7人いた
p160.東京都内の市には東・武蔵といった方位や国名を示す文字をつけた市がある。これは戦後の復興期に都内の各地域で人口が急増した結果として、市制を施行する際、すでに国内に同じ名称の市がある場合には、前からある市に”敬意”を表して、その市からの方位を示す文字を頭につけることになっていたためにつけられた。これを「市制施行名称変更」といった
p166.連続した銀座の火事、迅速すぎる政府の対応、手厚い義援金の拠出などを考えると、これら一連の火事は「東京の玄関=新橋駅と皇居のあいだに位置する銀座の近代化のためだった」ともいえよう
p175.東京の苦行は、石神井川・神田川・古川・目黒川の流域および江戸前の海岸の官営工場を中核に、民間工場が集中して発展していった
p203.オリンピックは都市が招致・主催するという原則にもかかわらず、埼玉県(5施設)、神奈川県(4施設)、長野県(1施設)にも競技会場があてられた。まさにこのオリンピックは、千葉県を除く首都圏で関連施設が建設・整備され、「国家事業」として行われたのである
p209.昭和40年に淀橋浄水場が閉鎖され、跡地が整備されて昭和43年にまず新宿中央公園が完成し、11の街区が建設された。副都心全体の地所が低く下がっているのは、かつての浄水場の沈殿池の名残だ
p218.高崎線は、当時唯一の外貨獲得物資である生糸の生産地の中心地高崎と、輸出港横浜を結ぶ「シルクロード」の形成が目的だった
p222.常磐線にはまったく新しい役割が加わった。それは沿線の常磐炭鉱から産出された石炭を、東京の隅田川貨物駅に直送することで、現在の荒川区南千住4丁目を中心とする広大な駅構内には、貨物引込線ごとに運河が掘られ、貨車で運ばれてきた石炭は、そこで舟に積み替えられて、東京全市や京浜の工業地帯まで運ばれていった。いうならばこの貨物駅は、興隆期の東京の工業のエネルギーセンターだった
p224.世界の大都市では多くの場合、鉄道駅は都心に乗り入れずに、都市外縁にターミナル駅として配置されている。その理由は、煤煙・騒音・振動などが大きかった蒸気機関車時代特有のもので、現在、たいていは各ターミナル間は都心を通る地下鉄で結ばれている。東京の場合は、蒸気鉄道の導入後、わずかの間に電化技術が登場したため、東京駅に代表される中央停車場を中心に、電車鉄道網が比較的早く形成されていった
p228.中央線は、はじめ東京~八王子間は旧甲州街道沿いに計画されたが、騒音や公害などが出るなどと街道の宿駅関係者の猛反対を受けたため、武蔵野の”無人の原野”に線路を施設することになった。これが現在の東中野~立川間の約24キロに及ぶ一直線の線路だったが、軍部には大変に好評だったという
p246.市街地でなければサカとは呼ばれなかった。サカとは人が汗をかいて上り下りする「道」であって、近代の自動車の通行を主にした斜面はサカとは呼ばれなかった。その好例として、昭和になってからのことだが、関東大震災後の帝都復興事業の一環で新設された、現在の靖国通りの小川町交差点から坂を上がって聖橋に行く大道路は、完成以来約70年経った現時点まで、ついに「坂」と呼ばれないできた。この「坂」は、来るべき自動車時代を予想してつくられたものであったため、坂名がないのはいわば当然のことだったのである
p249.幕藩体制の確立過程で、江戸の町地は必ず○○町(チヤウ)と呼ぶ方針になっている。同時に、町をマチと読む場合は下級幕臣の組屋敷(今の公務員宿舎)などを、その組名をつけて呼ぶ時などに限られた(御納戸町・払方町など)
p250.「元」と「現在地名」との関係は、単に元地と新地(異動先)の区別に用いられた。一方、「本」と「新」の関係もあった。昔は米穀商を石屋といい、その石屋が集まって石町となる。その一部が神田に移されて新石町ができると、本家の石町は本石町となり、現在まで続いている。この場合の「本」と「新」、または「本」と「方位」(東西南北)を冠した町の関係は新旧二町の”親子関係”を示した
p253.「辰巳」は江戸城の南東にある繁華街深川の別名となり、同地の芸者は辰巳芸者の名で有名だった。同じく公認の遊郭吉原を城の北側の意味を込めて北国または北州といい、対する品川は南楼と呼ばれた
p256.江戸の武士の中で江戸生まれでないのは、参勤交代の大名の供をして国元から従ってきた下級武士だけで(実はこれが多かったのだが)、大名・旗本とその夫人たちは、生まれだけを考えればほとんどが江戸っ子だった。その一方で、日本橋界隈に店を構えるような商店の多くは、江戸店といわれる支店で、本店は伊勢や近江にあった。そして、このような大店では、経営者はもちろん配偶者も店員も、本店のある郷里から迎えるのが普通だった。江戸に住む富裕な町人層は、まず江戸っ子ではありえなかったのだ
p261.江戸は人口が増えて繁栄していったが、その反面で、火災、貧困、風俗などの都市問題が深刻になっていた。吉宗は、これを解決するために「享保の改革」を行い、各種の対策を実施した。飛鳥山の桜もこのとき改革の一環として植えられたものだ。その目的は、頽廃した風俗を是正し、市民に健全な娯楽を与えることにあった。こうして飛鳥山のほか御殿山、隅田川堤、中野、小金井など江戸近郊の各地に桜や桃を植えて行楽地をつくったのである
p267.東横線の「自由ヶ丘」駅は九品仏川の流域の湿地を埋め立てた場所である。なのに、この駅には丘の字がついている。実は、この「丘」あるいは「台」の字は、関東大震災後に東京近郊が急速に宅地化した時期に、各電鉄会社が駅名や開発団地名に愛用した文字だったのだ。だが自由ヶ丘駅(行政区画名は自由が丘)の例のように、それは必ずしも実際の地形を忠実に表現したものではなかった

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